まえがき
ブログのネタとして適切かどうかはわかりませんが、
やりたかったことの一つとして、自分の過去を整理してみたいというのがあります。
それこそ、パチンコやパチスロなどのギャンブルとは、
一生無縁であると思われた僕が依存症にまでなってしまった理由。
それを詳しく知るため、、いや、単純に自分語りをしてみたいだけかもしれませんが。
波乱万丈でもなく、語るに値しない人生だとは思っていますが、
それでも自分の人生を物語にできるのは自分しかいないので、書いてみます。
まあ、読んでもいいかな。という方だけお付き合いいただければと思います。
神童(笑)と呼ばれた僕が、ギャンブル依存症になった過程を書いていきます。
生後〜幼稚園
夜泣きが多くて神経質だった赤ん坊時代
1984年5月7日。 僕ことウルスが誕生いたしました。
名前については両親がすごく考えたとのことで、本名を姓名判断にかけると、かなりの戦闘力を持っています。
誰も、僕が33年後の5月7日まで、パチスロ依存に悩む大人になるとは想像しなかったでしょう。当たり前ですが。
とにかく、赤ん坊の頃は神経質で夜泣きが激しく、母はかなりノイローゼ気味になって、僕を抱えてベランダから飛び降りる寸前まで行ったそうです。
そうなってたら僕はなんにせよこの世にもういなかったので、何とか耐え切ってくれた母に感謝です。
僕の初めての記憶は、当時住んでたマンションの前で、父が僕を抱っこして夕焼けを見ているという記憶だと思います。なんだか夕焼けの色が綺麗で気持ち悪かった印象があります。
月とか、洗濯ハンガーとか、空中にある物が怖かったらしく、それを見てよく泣いてたので、夕焼けもなんだか思うところがあったのかもしれません。
幼稚園に入る前くらい
神経質さ、今ではそれは敏感さだったという認識ですが、それはやはりひどく、特にお風呂は怖かったですね。
まず、お風呂のおもちゃは湯船に浮かべたりして遊ぶ物なのに、それが沈んでしまう可能性が怖くて、全て浴槽の縁に置きながら遊んでいました。手に取る一個だけはお湯の中に入れても良いのですが、それ以外を浮かべっぱなしにしておくことはできません。
もし一つでも見つからないおもちゃがあろう物なら気が狂ったように泣き出したそうです。そこまでだったかなあ、という記憶はないのですが、でも怖かったのは事実です。
後は、浴槽と洗い場の間の仕切りが急に天井までせり上がって、浴槽から脱出できなくなる妄想をよくしていたので、いつも仕切りのところに手をかけてピンチにならないようにしていました。
この神経質さを持ち合わせていながら、あんなうるさい賭博場で何時間も平気でいられるようになってしまうのだから驚きです。
父は転勤族で、幼稚園に入る前までは埼玉に住んでいましたが、幼稚園からは北海道に引っ越すことになりました。母の実家も北海道で、生まれた病院もそうなので、出身は北海道ということにしてます。
恐竜と鉄道の図鑑が大好きで、物語よりはそれらばっかり読んでいました。
恐竜の名前をたくさん言えたり、3歳にして遠近感のある電車の絵を書いたりしていたので、祖父母は僕を天才呼ばわりしていました。
「ウルスちゃんは、将来は弁護士か医者になるねえ。
お医者様になったらばあちゃんの喘息を治しておくれ」
ってな感じのことを言われてました。
ごめんな、ばあちゃん、さすがに今から頑張っても医者と弁護士にはなれないわ。というか、ギャンブルにハマるような大人になっちゃったよ。
幼稚園〜小学校低学年
病弱な幼稚園時代
幼稚園時代は今と違ってガリガリのヒョロヒョロで、病弱でした。小児喘息から肺炎になったりして、年中時代のうち2,3ヶ月分くらいは入院して過ごしていたとのこと。
鼻炎アレルギーからの蓄膿症や中耳炎などにもよくかかっていて、鼻や耳にいろいろ突っ込まれるたびに泣き喚いた感じです。
そんな子供時代でありながら、将来ヘビースモーカーになるとは思っていませんでした。この頃だったかちょっと前だったか、父の吸っていたタバコの火が手に当たって、本当に焦げるほどの火の熱さを経験したので、トラウマで絶対吸わないと思ってたんですけどね。。
幼稚園時代の記憶
幼稚園時代の記憶に残っているのは、初めての葬式ですかね。
同じ組にいたMちゃんという女の子でした。5歳です。
風邪とはしかに同時にかかってしまい、不幸にも助からなかったそうです。
Mちゃんとは、遊び時間によく跳び箱やら、ローラー付きの車やらで一緒に遊んだ記憶があります。目がくりっとしてて、もしかしたらちょっと好きだったのかもしれません。
でも、なんだか当時はよくわからず、Mちゃんが亡くなったということで泣いたという記憶はありません。お母さんがたは神妙な顔をして話していた雰囲気は伝わってきましたが、僕の記憶にあるのは、同じく参加していたKくんから何故か飴をもらった時の記憶だけなんですよね。
Mちゃんに関しては、一緒に遊んだ記憶しか他には思い出せません。
今の僕の5分の1も生きられなかった女の子。いま、その子に誇れるような人生を送れてはいません。
ありがちな言葉ですが、誰かが生きたかった今日を、僕はきちんと生きていくことができるのだろうか。
若くして亡くなってしまったMちゃんのことを思い出して、ギャンブルにハマってしまった人生のままではいけない、克服はやはり僕がしなければいけないことだと再認識しました。
小学校低学年1「マンガ」
1,2年生の頃といえば、まずキーワードの一つは「マンガ」ですかね。
マンガは実は幼稚園時代くらいからドラえもんが好きで、スケッチブックに大長編ドラえもんのパクリマンガを描きまくっていたのですが、小学校に入ってからはオリジナルマンガを描くようになりました。
同じクラスにもマンガを描いてるD君がいて、そいつと競い合ったりして描きまくっていたのですが、それにしてもD君は筆が速かったな。
ちなみに僕のオリジナルマンガのタイトルは、
「カラフルマン」「コージキ君」「チュー太の大冒険」
とかそんな感じでした。カラフルマンは、カラフルなドングリ状のスーパーヒーローで、多分ワンパンマンを余裕で超える面白さだと思います。コロコロコミック系の下ネタがわんさか出てきます。
コージキ君は顔が「コ」の字の形の顔をしたおっさんが乞食生活で物をせびる的な話だったはず。小学生が描くにしては不謹慎極まりないネタだと思われます。
チュー太の大冒険は「ガンバの冒険」的なのをイメージしていただければいいようなシリアスもの、だった気がします。世代は違うのでインスパイアではありません。
いろいろ描いてはいたものの、どれも最終回を迎えることはなかったはずです。
どうしても飽きっぽいというか、なんかそのD君は本気で漫画家を目指していて、僕の5倍くらいの自由帳と巻数を重ねていたのですよね。そして、それに敵わないような気がして諦めてしまったのだと思います。
小学3年になる年に転校することになるので、マンガバトルも自然と無くなりました。
小学校低学年2「モテ期到来」
小学校に上がる頃には喘息もだいぶ良くなって、体型も今とは違ってスリムだったので、結構運動ができたんですよね。
で、小学生ってやっぱり足が速いとモテるじゃないですか。なのでリレーの選手をつとめたりする僕は女の子にキャーキャー言われてたんですよね(笑)
それに、テストは毎回100点が当たり前、2年生の知能テストで5年生レベルの能力があると言われて有頂天になっていた僕は、このころからやっぱり本当に自分は頭がいいと意識し始めたのだと思います。
そんな文武両道な僕を女の子がほっておく訳がありません。
やはり女の子の方が大人なので、校庭で僕は追いかけ回されたり、キスを強要されそうになったりと、なかなかいい思いをしていたはずなのですが、当時は単純に怖かったですねw 据え膳食うとか知らんし恋愛どころじゃないバクマン生活だったので、逃げ回ってなんとか回避していました。
転校が決まった後にも、実は好きだったと告白してきた女の子もいましたが、それっきり。付き合うとか、手紙をやりとりするといった発想は全くありませんでしたし。
その後、食欲増進によるデブ化のおかげで、ここまでのモテ期は存在しなくなりましたw もったいなかったかなあ。。
次回は「小学生編後半」から続ける予定です。